広島陸軍兵器補給廠

 広島陸軍兵器補給廠

 1945年8月6日の原子爆弾投下では、爆心半径3.0km以内にあり、比治山の陰に入る位置にあったものの爆風により半壊ないしそれに近い被害を受けました。このため修道中学校・崇徳中学校・現在の広島修道大学ひろしま協創中学校・高等学校など勤労動員されていた生徒の多数が被爆・死傷しました。当日の広島では、兵器廠以外にも建物疎開などに多数の学生・生徒が動員されていたため、動員学徒の全員が死亡した例も多かったそうです。当時修道中学に在学していた平山郁夫もこの時負傷した学生の一人である。また被爆直後市内から撮影されたキノコ雲の写真の一つは、当日カメラを隠し持っていた動員学徒によってこの地点から撮影されました。

 戦後、広島県庁、ついで広島大学の医療系学部や広島大学病院が跡地に移転し、かつての補給廠の建物は医学部の食堂などに転用されていたが、1970年代以降次々と解体が行われ、最後まで「医学資料館」として使用し保存されていた11号館も1999年に解体されました。その際、外壁の一部が広島市中区の修道中学・高等学校で被爆建物として保存・展示されています。









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