広島市郷土資料館(旧宇品陸軍糧秣支廠缶詰工場)

 広島市郷土資料館旧宇品陸軍糧秣支廠缶詰工場

 日清戦争時に臨時帝都となって以来、近代港湾と鉄道が整備済みで大陸進出の兵站基地に適していた広島には陸軍関連の施設が次々に建てられ、陸軍に強く依存した軍都としての体裁を急速に整えていった。中でも大きな存在感を持ったのが、兵器支廠・被服支廠・糧秣支廠です。ちなみに糧秣支廠とは兵士の食糧と軍馬の餌を製造・調達・補給する陸軍の施設のこと。 ・明治30年 『陸軍中央糧秣支廠』として宇品海岸通りに開業。 ・明治35年 『陸軍糧秣支廠宇品支廠』と改称。 ・明治40年 『宇品陸軍糧秣支廠』と改称。 ・昭和44年 宇品御幸に移転され、工場や備蓄倉庫・試験所などの施設を合わせて30棟以上を  建設。 この工場では北側の食肉工場で牛の屠殺(とさつ)と精肉処理を、南側の缶詰工場で缶詰加工をおこなっており、約800人の従業員が牛肉の大和煮の缶詰を製造していました。
 
南面の外壁にはレンガ2枚分の控壁(ひかえかべ)がせり出しており、中央入口部分の庇は三角形の破風がある切妻造りになっているほか、壁の上部のアーチに雨樋を収め、中央上部に球を据えた軒飾りを立てているなど、外面のデザインにさまざまな工夫がある。

※瓦棒葺き 金属板で葺かれた屋根。傾斜の方向に一定間隔で取り付けられた棒状の材ごと金属板で覆うのが特徴。材も金属で覆うので、雨漏れしにくい。
板金屋根の工法のひとつ
※控壁 壁の安定性を高めるため、適当な間隔で壁面から突出させた柱状や 袖壁でかべ 状の部分。

陸軍の糧秣廠(りょうまつしょう)は全国に9ヵ所ありましたが、大正12年の関東大震災で東京陸軍糧秣本廠が被害を受けて以後は、牛肉缶詰は全国でもこの宇品陸軍糧秣支廠のみで生産されていました。太平洋戦争開戦後も操業されていましたが、昭和19年冬に戦局悪化を理由に操業停止となりました。

昭和20年8月の原爆投下では窓ガラスが全損し屋根の鉄筋が折れ曲がりましたが、爆心地から3.2kmと遠距離であったため損害は軽微で、暁部隊(あかつきぶたい)が負傷者の救護所として使用しました。ちなみに、暁部隊とは海上輸送など「海」にかかわる陸軍の部隊をさします。太平洋戦争終戦後は、昭和24年から民間の食品会社カルビーが使用していましたが、昭和52年以降は使用されなくなり、平成19年に被爆建物でありながら北側の食肉工場は解体されてしまいました。

(一部歪んだ屋根の鉄筋)

昭和60年に広島市の重要有形文化財に指定され広島市の郷土資料館として利用されており、現在も原爆の爆風で歪んだ鉄筋が館内に現存します。しかし、当時はこの辺りに多数あった糧秣支廠の関連建物が、現在は缶詰工場を3分の1に縮小した資料館のみとなってしまったため、もっと保存すべきだったと惜しむ声もあります。






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